11日光大権現外伝・二本松少年隊
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最終回日光大権現その11外伝
二本松城から二本松歴史資料館へ行った後、こちらへ
曹洞宗 巨邦山大隣寺
二代丹羽長重が1627年に初代長秀の菩提を弔う為に白河に建立したお寺だが、1643年に三代目光重が白河から二本松に国替となったので大隣寺も一緒に引っ越して来た。寺領百石強、二本松に越してからも諸般の理由で2度ほど移転しているらしい。現在の本堂は1822年もの。戊辰直後は二本松藩庁仮事務所、藩校などに使われりもしたらしい。
丹羽氏のプライベートテンプルなので寺紋ももちろん違棒
境内はお参り自由だが、本堂は一般公開されていない。ウェブサイトでお堂内部や丹羽氏歴代画像などを見ることができる。
本堂入口でお線香が入手できます。
2束100円(1束半額可)
もちろん2束にしましたが、火をつけるのがカセットコンロでちょっとビビりました。着火マンやライターより安全なのかもしれない。
お線香は猫がいたずらすることがある(あはは)のでお菓子の蓋がしてありまして、お菓子のカンカンの中にお線香を入れてあるのかと思いきや、普通の香典箱みたいなのにはいってました。なので蓋は置いてあるだけ(なんかものすごくウケた)、なんか猫でもパーンとたたきおとせそうなんですが。
戊辰戦争で亡くなった全員の群霊塔は本堂に向かって左手
慶応4年、1868年7月26日、三春藩が西軍に帰順し27日即日無血開城。西軍の平潟方面軍が到着し、板垣支隊はその兵力が倍以上になる。これをうけて守山藩も新政府軍に帰順。この時二本松軍の本体は仙台藩の兵と一緒に郡山(三春藩南西)にいて、二本松城はほぼ留守状態よってすでにヒューマンリソースが枯渇、ここで兼ねてからの年齢鯖読み機構がエスカレートし、12歳から17歳までの62名が各隊に配属された。その3日後の朝、隊長木村銃太郎、副隊長二階堂の率いる少年隊士25名が大壇口で敵と遭遇、同日に二本松落城。
三春狐にだまされた、、
会津と長州や、秋田と仙台ほどに有名でもないですが、二本松と三春も戊辰以来仲が悪くなったようです。ゆうても私が生まれた頃はほんの100年ほど前の出来事ですし、そりゃそないに悪感情はなくならんもんだとおもいますねぇ。残念ながら。
戊辰戦争第一の激戦
この少年を集めた隊は62名、そのうち戦死者14名、戦闘で亡くなっている。
戦死を免れた隊士の一人、武谷剛介氏(当時14歳)の回顧談に
「藩のため戦争に出て戦うことは、武士の子として当然のことであって、特に語るべきことではない。恐ろしいとは思わなかった。出陣の前夜などは、今の子どもの修学旅行の前夜のようなはしゃぎようだった。」と書かれていた。
もう実際に戊辰戦争の時代を生きた人もおらんようになって、
自宅で戦争の話を聞いた人も少なくなってきたのでいがみ合いは減っているのではないかと思います。昔に比べて気軽に県をこえて地所かえする人も増えましたしねぇ。
墓所の前に二本松観光センター/土産物/御食事
テラスにのっかった少年隊のデコイ?が悲しい、、
寄りましたけどねぇ
なんとなくしんみりと二本松を出発
会津若松城にも寄りたいところですが、何せフィジカルに時間がないのでトイレ休憩だけ(笑)。
二本松と比べて会津の白虎隊は約340名で予備隊とはいえ土中、寄合、足軽の3隊で構成されていて、いわゆる世に有名になってしまった白虎隊は20名が自刃したことでしょうか。やはり自刃のほうが怨霊になりやすそうで祀られる度合いが高いように感じる(主観意見)。
60歳で征夷大将軍となり江戸幕府を開いた徳川家康。13年間徳川政治の基盤を固め、自分の死までも政治利用した日本屈指、いやほぼトップといっていい政治神はこの最後まで読んでたやろかねぇ。1603年から1863年、265年続いた徳川江戸時代は終わる。最後に江戸を〆た慶喜公の直系は今年の9月に徳川慶朝氏が亡くなって断絶。
日光東照宮入口付近にある看板
家康東照大権現はここからさらに高いところになります。
なんだかんだいってやっぱり家康やねぇ。
日本の神様は自身が不遇であったことに神徳があるといいますが(例えば夫婦仲を裂かれた神様は夫婦円満の神様)、やっぱり必勝祈願は日光東照宮かもしれませんねぇ。運と努力と理詰めで勝つぞ(あはは)。
そんな感じで、日光大権現お開きです。
まだまだ見足りないところも多かったですが、大満足でした。
日光東照宮、また時間があれば是非再訪したいです。
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