幽霊子育飴
シリーズキヨトその12
飴買いがてら六波羅へ来ました。
京名物 幽霊子育飴
みなとや本舗さんです。
450年以上の歴史ある飴屋さんで、若き日の水木サンがこちらの飴を食べてゲゲゲの鬼太郎が誕生したのは有名。鬼太郎は墓場で生まれたという設定がまさにコレ。すんごいコトなのでスよ!ものすんごく有名なお店ではありますが、飴1種にお茶1つ2つしか取り扱いがないということもあってか、誰も客がおらん(滝汗)。ていうか、この飴屋で私は他の客にあったことがない。まさか、店主も私が墓場から赤子の飴を買いにきたとは思わんだろうけど(いひひ)
優しいお味の綺麗なべっこう飴で、毎日ほちほちたべても全く飽きません。
子育幽霊は有名な話ですし、落語や絵本や日本昔ばなしでもやってたんでまず知らん人はおらんかと思うが、ストーリー的には埋葬された女性が(もちろん土葬)、墓の中で出産し、死体なのでもちろん母乳が出ないので幽霊となり夜な夜な飴を買いに行き、飴で約1週間赤子をサバイブさせた。女性が使ったお金が全部で6文(三途の川を渡るために一緒に埋葬されるお金)、この大筋で細部はバリエーションがあります。この子育飴の話は説法に使われてものすごく流布したのであちこちで別バージョンなんかもみられます。
自分への京のお土産にはこの子育飴やねぇ、満足満足。
して、なんで、この場所で子育飴か?というと
この飴屋さんのある辻がまさに
六道之辻です。
清水寺の回でさっくり書きましたが、清水寺のあるあたりは平安京の死体捨て場/火葬地であった鳥辺野でこのあたりはまさに鳥辺野の入り口あたりになります。そんなんで、此岸と彼岸の境にあたるということで「六道の辻」と呼ばれています。しかも飴屋は六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)のブロックにありますんですわ。六道珍皇寺というと小野篁がこちらの井戸を通って冥界に通いながら閻魔様の冥官を勤めていたという由緒正しいトワイライトゾーン。しかも平清盛を荼毘に付したのもこのあたりだという伝承があるし、木曽義仲の首塚もあるし、日本史上最強の怨霊といわれる崇徳天皇をお祭りする安井のこんぴらさんもこの近所。
それはそうと、私が定点観察している自宅エリアの鳥屋野潟も初めて案内されたときには、その名前から昔は死体を棄てる場所だったのかと想像してしまいました。が、鳥屋野潟は今でこそドライですがつい最近まで完璧にウエットランドだったそうで、向き不向きでいうと不向きな場所。それに人が入植したのは最近(1500年代後半)なので単に鳥が多いところで鳥屋野か、もしくは入殖当時から“河川の氾濫”と“排水の悪さ”のために収穫が見込めない墓場のような場所だったのでトヤノとよばれたのか、とか色々妄想がつきません。私的には単純に鳥という字が入っていて気に入ってます。
話はズレズレになりましたが、六道之辻というと
平清盛の邸宅があった場所で、清盛が六波羅殿とよばれるのはこの場所の所為。今でもうちの一族は場所名でよばれるんですが、ま、かわらんわな。鎌倉時代は六波羅探題があったところ。
京都に来ると、清水寺と並んでなぜかやたらと足を運んでしまう六波羅蜜寺
去年からやたらと清盛関係の小説を読んでいるのでさらに気分アゲアゲ〜〜〜。
補陀洛山六波羅蜜寺
真言宗智山派でご本尊は十一面観音、ファウンダー:空也上人。
”波羅蜜”というと般若波羅蜜多心経(般若心経)の波羅蜜で、悟りの世界(彼岸の一つ)へ行くというのような意味あい。
西国三十三所第17番札所で、西国三十三所というと、那智山青岸渡寺から谷汲山華厳寺までの観音様の霊場を回るスタンプラリー巡礼行で、1、2、3が和歌山スタートということもあり小さいころからかなりファミリアです。昔のように徒歩で巡礼するわけでなく、一度に全部まわらんとあかんわけでなく、自家用車やバスなので実家から一番遠い谷汲山で3時間ちょい、自分で運転しなくても、日帰りや1泊で数カ所回る巡礼バスツアーなんかもたくさんあって人気アクティビティでした。最近は御朱印集めが流行っているそうで若い人の巡礼も多いみたいですね。うちのばあさんたちも帷子や掛け軸に御朱印をもらって集めて、死んだ時に棺桶に入れてもらったり、入れてあげたりするもんでした。もちろん掛け軸なんかは飾ってオッケーですし。前に若いガタの人に和歌山というと西国三十三所のスタート地点ですね、という話を振られて驚いた(若い妙齢のギャルだったので)のと、とても嬉しかったです。
話はまたもやズレズレ、六波羅蜜寺にもどします。
踊り念仏で有名な市聖の空也上人が天暦5年(951)に建てた十一面観音を本尊とする道場がこちらの開山。空也上人は疫病の蔓延する都で御本尊を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶(薬的なもの)をふるまって多くの人を救済したそうだ。清水寺や鳥辺野が荼毘に付したり死体をひきとってもらうところだと書きましたが、下々の人々、今で言うところの一般人いわゆる人でない層は道端にほったらかしか、もしくは鴨川の岸辺に捨てられ、風葬状態だったそうで色んな物語や絵巻物などにもその様子を伺うことができます。そして、その鴨川岸に僧侶僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行った空也上人です。
宝物殿内部は撮影禁止ですのでこちらでご勘弁
小学生のころから空也上人像に異常に執着していますが、我ながら意味不明。空也上人自身に興味はそないにないんですが、こちらの空也上人像になぜか興奮するんですわ。小さいころに何遍も絵を書いたりしたりもしました。デビルズタワーかっ(笑)。鎌倉時代、康勝(運慶四男)作。お坊さんの像というとほとんどが坐像、たまーーに地蔵菩薩とごっちゃになったよな石仏はあるけどねぇ。この空也上人像のすごいところは踊り念仏中の空也上人をリアルに再現しているところ、そのまま歩き撞木をならして読経しそうな勢いですわ。口からは「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える度に阿弥陀仏が口から出現する様子が3D画像で見られるという視覚効果。なんというビジュアルかっ。
それと平清盛像とされている、入道の坐像。私の中ではどの平清盛がでてくる小説を読んでも脳内でこの坐像の清盛が再生されます。
狭い宝物殿ですが、平安鎌倉期のすばらしいスカルプチャーが揃っていて何時間でも過ごせます。もー、ただただため息のすばらしさ。が、しかし、ここで何時間も過ごしていられないので退出。
六波羅蜜寺の手ぬぐい
今回ゲットしたのは下側のもの。上側のんは20ン年前に購入したもの。
重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば
五逆罪を犯した重い罪人でも、六波羅蜜寺に参れば罪は消えていく、というような御詠歌。まぁ、刑事責任が消えるというのではなく、仏教徒としての罪のこと。空也の教えはのちに法然や親鸞が唱えた全ての人、女性や罪人までもが阿弥陀に帰依するだけで救済されるというような形態の先駆的な考え。口称念仏の祖、なんまんだぶのパイオニアですな。
念仏ておもろい考え方だと常々思っていたが、この前善光寺の勤行を拝見してから、なんで爆発的に流行ったのかちぃと理解したような気がした。
てなことを考えながら移動していると、
光線て!!!
スペシウム?
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弁財天堂

六波羅蜜寺の境内面積は廃仏毀釈でものすんごい縮小されてしまっています。
六波羅殿が見たら泣くやろね。ただ春の夜の夢のごとし
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