まれびと
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昨日はF.O.S.でヤブサメ見ました。
寒かったですが、春やなぁ、、と実感。
さて、
シリーズあいづ9
大内宿のメインエベントです。
高倉神社
街路に一の鳥居があり、ここから参道
300メートルほど離れた村の西に、こんもりと鎮守の森が見える
高倉宮とか三条宮とか呼ばれましたが、以仁王は後白河天皇の第三皇子。
ちなみに高倉天皇は以仁王の弟宮で第七皇子(母が平滋子で平清盛の正室時子の異母妹、清盛の義理の甥で、安徳天皇や後鳥羽天皇の父)。そう、以仁王は平家全盛時代に平家腹でない皇子だったので、ごっつい冷や飯を食わされたのでありまして、で、そんなこんなで”以仁王の挙兵”治承4年(1180年)を起こして、治承・寿永の乱に繋がっていくトリガーを引いた人物ですな。以仁王は頼政と同じく宇治平等院の戦いで戦死、平家物語には光明山鳥居が終焉の地にはなっているが、もともとあまり人前に出ていない皇子だったので、生き延びて東に逃げた伝説が残っているんだが、
実はガタ県の長岡(小国町)に落ち延びていたという伝説があるし、長野県木曽郡上松町には以仁王の姫宮に関する伝承がある。以仁王本人が落ち延びたというよりも、以仁王側の貴族か従者か、ゆかりの人が落ち延びてはいるんだろうとは思われる。もしくは、色々と伝説が混じっているとかそこらへんか。
非常に明確に”界”が分けられている
こちらの大内宿では”高倉様”は大変崇敬が厚いようで、しっかりしたお祭りがあり、色々と言い伝えが残っているんだが、実際にお祭りは見たことがないものの文献でみるかぎり、以仁王の血筋も残っていないことや、”高倉様”という神様の性質が、土地神や、塞の神のような性質を持っているので、折口用語でいうところのマレビト、来訪する霊的もしくは神の本質的存在のようなものであろうと思う。ガタでもよく見られるが、外部からの来訪者”マレビト”に神様になってもらい、ケガレを持って彼岸に行ってもらう。そのマレビトに実在の有名人の名前を冠せるのはよくみられるので、まさにそのパターン、ちゅうところがアタリやと思うんだけど。どやろか。
本殿を囲むように水路が敷設されていて、ここでも明確に”こちら”と”あちら”が隔てられている。
その水路に直接御手洗場(みたらしば)が設けられている。五十鈴川をイメージする、古来スタイルの手水。
山間のムラの人間関係が密な集落ながら、宿場になっていることもあり”来訪者”は定期的に訪れ、災厄も幸福も、そして信仰心をもたらしたのだろうと思う。ただし、マレビトとムラビトの間にはキッパリハッキリとした川で隔てられていたんだろうねぇ。
牛頭天、摩利支天、不動、山の神も境内に祀られている
マレビトがこの村に訪れ、高倉宮の伝説を吸収してバージョンアップし、
さらに信仰を強めていったんだろう。神様もレベルアップすることによって強くなるもんだ。
高倉神社は別枠扱いというか、敬うとともに畏怖を感じるが、
生活密着の神様もたくさんお住まいになっている。
大内宿の観光案内所と駐車場がある大内宿の南端から街路の北の突き当たりには
湯殿山、こちらの裏手に三仏堂
めちゃ生活密着型!!(あはは)
さすが山の中というだけあって、山岳信仰、修験がバッチリ入っている。
祖・寂了が高倉宮のスペシャルリレイションシップがあった修験の南仙院とかも絡む。今流行りの腐系。
三仏堂には不動、神変大菩薩、孔雀明王が祀られている。和歌山では孔雀明王はそんなに珍しい明王でもないが、どうも東にくればくるほどレアになるようなイメージがありますな。孔雀真言とか大掛かりすぎて、小さい村には不向きなのかというか、伝播しにくいややこしいタイプかと思う。
弁財天、白湯山
半宿半農なだけに流行りの神様はものすごく早く入ってくる、ナウな先端エリアのわりに、農の部分が人の出入りについて特殊なリアクションを起こさせたのではなかろうか。
馬頭観音、巳待塔、庚申塔、無縁供養塔、青面金剛塔もフレームアウトしているが並んでいる。
庚申さんは既に奈良時代には会津地方に伝わって、当時会津地方に生まれていた忌(いみ)や篭(こもり)などの民俗慣習と混ざって、庚申講につながっていったようだ。庚申講とか大師講という1〜2ヶ月ごとに当番に当たった家に集まって庚申を祀って一晩過ごす「話は庚申の晩」と言われる日待月待信仰の風習は多くの地方に残っているが、もちろんこちらの大内宿でも行われていたらしい。
高台には石段が両サイドに設けられていて、さらに大きく円を描くように女坂のような坂経路もある。途中、正法寺があり、
西の階段を上ると子安観音、見晴台、弁天様があり、また降りる石段と坂にスプレッドする。
見晴台から村の全貌が眺められる。
民間信仰の見本市のような、、
非常に興味深いエリアでした。
まだまだ後ろ髪を引かれますが、
大内宿を後にします。次回シリーズあいづ最終回!
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案のごとく宮は参騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居のまえにて追ッつきたてまつり雨の降るやうに射まひらせければ、いづれが矢とはおぼえねど宮の左の御そば腹に矢一すぢ立ちければ、御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけり
http://www.j-texts.com/heike/ryukoku/hry04.html
以仁王の子供たちは八条院の御所にいたんだが、平頼盛が連行して出家させた。そのうちの一子が北陸に逃れて源義仲に助けられ、義仲はその皇子を「北陸宮」と名付けて、上洛時にこれを押し立てて平氏とともに西走した安徳天皇に代わって皇位に就けようと画策。かつて以仁王が令旨を発したことを不快に思っていた後白河法皇によって却下される。

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