本所回向院にてにゃにゃ文半
神奈川宿紀行第十九話江戸篇
本所回向院にやってまいりました。
ねこさんがわらわらと出て来ました。
足袋のサイズはにゃにゃ文半でしょうか?(あははは、古すぎて誰もわからんって)
実はぐるぐるマップのナビゲーション(いっちょまえに無愛想な女性の声でしゃべってくれます)の通りになんも考えずに歩いてきましたら。確かに辿りついたんですが、山門もなけりゃ鉄格子のゲートがあるだけで、これはさすがに本所回向院なんで、今でも死体がポッと投げ込まれるのでは、と、あらぬ妄想をしてしまいましたが(笑)。目の前に目的のお墓が見えてますんで、仁和寺の和尚じゃあるまいし、ここで入れなかったから帰ろうってわけにはまいりません。どうしよう、、と、キョロキョロと辺を伺う。めっちゃ怪しい婆やん、ゲート飛び越える気かっ?って、違います、誰かおらんかなーと(普通そうですわな)、すると近くの工事現場からセキュリティーの人が出て来たんでとっつかまえて、どこから入ればいいのか?と尋ねたら、そこ(大徳院の角)を右に曲がったら正面玄関だと教えてくれました。
言われた通りに角を1つ曲がると、確かにありました。
回向院正門跡、、、(-公-;)
”跡”やん!!!現在幼稚園で一般人は入れなさそうやし、ていうか幼稚園閉ってるし。
江戸時代は両国橋に向かって正門が向いていたそうで、、今まで文献で読んでいる分にはピンと来なかったが、、こうして両国橋から渡ってくると隅田川がこの回向院の禊ぎ/回向院に封じられている霊たちが出て行けないようにする結界のように見えてきますねぇ。
よく神社仏閣の入り口に川があって橋がかかってますやん、アレが隅田川と両国橋っていう雰囲気なんですわ。
ともかく、回向院に入れない、、、どうしよう。
とりあえず、このブロックのぐるりを歩いてみようと、、
諸宗山回向院
ありました、京葉道路沿いに、、
まぁ、そりゃ現代ですもん便宜的に大通りに向けて山門を設置してるっちゅうことは想像すればまぁフツーな感じですわ。ま、遅かれ早かれ気付いたとはおもうんですが、ま、くるくるナビも所詮は機械なんで細かい事はわからんわな。
ともかく、ここから入山しまして
すぐにあの足袋履いたハチワレ猫さんにご挨拶してもろたんですわ。
最初に回向院に実際にいきたいと思ったのは、随分昔、お七と同じ年の頃に振袖火事を題材にした小説を読んだときです。あれから随分経って私もお七のオカンよりも遥かに歳くいましたが、漸く実現。本所回向院、もうそれはそれは江戸をやっつけてると頻出ロケーション、最近読んだ小説達にすらやたらめったら出てきまくりまして、もぅ、これは呼ばれてると言うていいでしょう(笑)。
ビルの谷間にうもれてる、、
振袖火事/明暦の大火(1657年)の焼死者10万8千人を当時の将軍徳川家綱の命令によって葬った万人塚が寺のスタート、そこから始まって安政大地震死者、水死者、焼死者、刑死者、遊女、無縁仏、あらゆる宗派宗教、さらに種も超えて全ての生あるものがこちらで供養されています。なので軍用犬・軍馬慰霊碑、猫塚、唐犬八之塚、オットセイ供養塔、犬猫供養塔、小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)や個人ペットの墓なども多数ある。まさに、日本やなぁ、、と感じるお寺さんです。歴史的には比較的新しいお寺ですが、供養されているお魂の数がものすごいです、魂/年で換算したら日本一なんではないだろうか、、。
全体的にざっくり手を合わせて冥福をお祈りしまして、
そして、目的の
京伝先生のお墓を拝見
「岩瀬醒墓」(山東京伝/岩瀬京伝)、「岩瀬百樹之墓」(京伝の実弟・京山)、「岩瀬氏之墓」(実父、伝左衛門)
墓石の銘文は京山の自選自書。お墓の写真を撮っていたら、回向院の寺男さんらしき人がひょいひょいひょいと私の方にやってきて、東京都教育庁が作成した都指定旧跡の岩瀬京伝・京山墓のポストカードをくださいました。壁に耳アリお墓にメアリー
色んな意味で怖嬉しい(あははは)。
山東京伝は江戸後期の戯作者/浮世絵師で、松平定信の寛政の改革で黄表紙の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などと一緒に処罰された江戸のセレブ(笑)、深川出身で歌も詠めるし絵も描けるフィクションもルポもエッセイも書ける万能の流行を牽引するライター。当時最先端ナウを発信してただけあってものすごくキャッチー。日本で初めて原稿料をもらった職業作家というのでも有名です。やっぱりご当地作家ですねぇ、この後もやたらと京伝作品が目につきました。
さて、動物のお墓がとっても気になりますが、
ネコとネズミの墓を並べるのはいかがなものか(笑)
鼠小僧次郎吉のお墓です。
36歳で小塚原処刑場(現在の南千住の回向院別院)で刑死しているんですが、なんせ戯作、狂言歌舞伎や小説にもでまくりの人気キャラクターになってしまいましたんで、こちらに供養墓がつくられたそうです(通常刑死者は墓にはいれない)。で、この供養墓は別名「欠き石」と呼ばれていて鼠小僧の墓石を欠いて財布に入れたり身につけていたりすると、金回りが良くなるとか持病が治ると言われて、削られ続けて、その度に本願した人々の寄進でリニューアルし、こちらの供養墓で数百墓目だそうです。現在では墓石を削るのは禁止されていてかわりに「お前立ち」が設置されていて、こちらを削るというシステムになっている。なかなか簡単に欠ける石でもないので、がんばらないといけませんが(あははは)。
鼠小僧の左となりに見えている「猫塚」、猫のお墓です。
落語『猫の恩返し』で有名な恩返し猫さんは実在の猫で、その墓石がこちらの硝子ケースに保護されているもの。落語では3両ですが、こちらの立て札には2両となっておりました。実在の猫の墓としての貴重な文化資料です。猫好きには必詣のお墓かと、、。
亀学 井田長秀之墓
備中松山藩士のようだが、ココに墓があるということは江戸住みの方だったのか、、全く持って不明。
それ以上に亀学ってナニ?
動物学的に亀を研究していたのか?もしくは亀は万年というので長寿の秘訣を亀からアプローチする学問だったのか(今適当に作ったのでそんな学問があったのかどうかは不明、笑)、もしくは亀といえば亀甲占なので占星陰陽的な学問だったのか、、。
まったくわからんけど、もっそい気になる。亀がかわいい。
私もこうして◯◯の、とつくようなライフを送りたいねぇ。一本立てのオタクにあこがれますんですが、なかなか1つにフォーカスできないぃいい。
塩地蔵
願い事をして、叶うと塩を供えて御礼する。
色々と非常に興味深い事柄が伺い知れる回向院でございました。
ああ、南千住のほうにもまいりたいです。あっちは刑場直属でゆうても安政の大獄橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎、有名犯罪者「毒婦」と云われた高橋お伝などが葬られておりまして、1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白らが刑死者の腑分け(死体解剖)に立ち合ったことを記念した1922年建立の観臓記念碑(建立は1922年)などもあります。
大変有意義な時間をすごしました。合掌
Happy Halloween!
どんなカタチであれ、先祖の霊/死者を敬うことは良い事だと思います!
さて、両国ですんで絶対外したくないところが、歩いてすぐ!
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東海道中膝電車スキマ旅19