くまたかライン
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シリーズあいづ10最終回思わぬところでバーディング
大内宿を出て、すぐに大内ダムがあります
古戦場・大内沼、、、
が、あった場所は現在大内ダムとなって、水の底
ダム工事は昭和53年に開始、58年に竣工。堤高102.0mの中央土質遮水壁型ロックフィルダムで、揚水発電所である下郷発電所の上部調整池でもある。ダムの底には大内沼戊辰戦争古戦場があり、戊辰戦争1868年に最後の激戦地となったところで、”戦死24人の墓”があったらしい。現在は左岸上部に移転されている。
茅葺き屋根で囀るセグロセキレイ
若松城下は既に籠城戦になっていた1868年8月の末、会津盆地南端の最後の塁だった、こちら大内も戦場となった。8月29日、南山通りを北上した芸州藩を主力とする西軍は、無血で田島に侵入。翌30日大内の南方・沼山で砲撃戦となる。大内沼付近から砲弾も発掘されている。小競り合いののち、多勢に無勢なので退いた会津軍は大内峠に最後の防禦線をはろうとしていた。西軍は退いた会津軍の陣に侵攻し、夜泊。翌々日9月2日に会津藩最後の塁となった大内峠で激突するも、援軍も物量もない会津軍はすぐに峠を捨てて、栃沢・関山ラインまで撤退
全く他の車に出会わない、静かな大内こぶしラインを下っていくと、
途中でクマタカが目の前を横切った。
めちゃ近かった。そして、めちゃ美しかった、、ラッキーしまうまアシピター。
これから大内くまたかラインと呼ぼう(笑
関山 戦死四十人墓
9月2〜3日わたり攻防戦があった関山。東軍西軍双方に死傷者が続出。東軍は、野村悌之助、渥美守太郎以下40名が戦死。関山の民家は進撃を阻止するために全戸火にかけられたそうだ。
栃沢にもダムがあった
大内ダムにはあまり水禽はいなかったが、こちらは水禽どっちゃり。
わーっと水禽が飛びまわっているのが見えた。
これは、オシドリーズやん!
ちょっと時間はあんまりなかったが、着水してくれ〜〜と祈りながら
こっそり車の中で待つと
オシドリって本当に美しい水禽よねぇ。
なんかもう、嘘くさいぐらい派手(笑)。
メスは例に漏れず地味で、アメリカオシのメスによく似通っている。ウッドダック(森の鴨)やねぇ。
氷玉峠
雪でどこが何やらよくわからんかったが、ここらへんが下野街道の氷玉峠で、石畳は300メートルほどが今でも残っているらしい。雪に埋もれてて今はわからんけど。途中にオブザービングエリアもあって、天候が良ければ若松城の天守閣がはっきり見えるらしい。
この先に戊辰戦死墓などもあるらしいが、
雪がなくなるまでお預けなり。
会津、非常に興味深く、知れば知るほどたくさん知りたいことが出てきますな。
近いのでまたちょくちょく遊びに来ようと思います。
クマタカも近くで見られたし、オシドリいっぱい見られて嬉しかった。
とってもいい旅でした。
シリーズあいづ、これにてお開き ちゃかちゃんりんちゃんりんでんでん
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